常識とは何か?〜科学的思考に隠される真理〜

「結婚式では、白いネクタイをしていきましょう。」

これは常識ですか?

これは常識ではなく、マナーです。こんなことは学ばなければ知りません。
つまりマナーの「知識」なんです。

 

「挨拶をされたら、きちんと挨拶をし返しましょう」

これは常識ですか?

これもマナーの知識ですよね。親や学校からそうやって教わったはずです。

 

しかし、生きているとそう言った知識を関係なしに「挨拶をし返したくなる挨拶をしてくる人」に会うことが時々あります。同じ「挨拶」でも、全くことなるものなのです。

それは「私に」挨拶をしていると感じさせてくれるもの。私がそう知覚するものと、しないものがあります。
社交辞令的な一種の儀式としての挨拶とは違った、人間関係としての挨拶。
そういった挨拶をされるときに、自然と挨拶をし返す。そんな反応が自ずから起こる。
それが「常識」なんです。

今の社会で「常識」と言われるもののほとんどが「知識」です。
知識なので人から教わることばかりであり、それらはつまり抽象的です。

本来的な常識とは、誰しもが共通して持っているものです。
つまり、知識とは関係なく誰もが具体的に自ずから知るものを常識というのではないでしょうか。

 

例えばこんな話

「姿勢を調整すると、心理的活性度が改善するよ」という論文(1)
「背筋を伸ばすだけでも気分が落ち込みにくくなるよ」という論文(2)

姿勢と心理状態が密に関連しあうということ。これはもう研究でも多くのことが分かってきており、今や医療関係者や教育関係者の間では常識となりつつあります。

とか言ってしまうのは、ちょいと違うんじゃないかと!
こんなことは昔から誰もが知っていたことで、専門職種じゃなくても、その辺の小学生でも「姿勢と心理状態は関係している」なんてことは自ずと知っているわけですよね。

それを常識というのです。

科学では、常識的なことの法則を解明していくことを行っているんですね。
科学によって「姿勢と心理が関係する」ことが分かったわけではありません。
科学によって分かったのは、その方程式は本当に成り立つのかどうか?という命題を、科学的な切り口から証明することです。

科学的な切り口から証明できるものは「知識」として広まるのが現代の社会です。
しかし科学的な切り口から証明できないことも沢山あります。

その大前提として、科学では人の知覚を捉えることはできません。
痛覚刺激に対する神経系の電気信号を捉えることはできても、その人の痛みを捉えることはできません。

先ほど知識とは関係なく誰もが具体的に自ずから知るものを常識というと書きましたが、知るためには「知覚」が必要なんです。その知覚を科学では扱うことができない。。

「慢性の腰痛があるけれど、旅行中は痛みを忘れていた」なんていう話は、医療の現場ではよく遭遇する話です。これも常識なのですが、科学的にはわかりません。「痛みとは何か」が科学では捉えられないからです。

 

常識とは自らの知覚に根付いたものです。そしてそれは人類共通のものでもあるのです。

科学が先にあり、知識が生まれ、常識が広まるのではありません。
私たちの知覚が常識的なことに気付き、それを証明する役割が科学にあるだけです。

「それ」を知るのは科学的には不可能ですから、知識で何かを知ることもできないわけです。

私たちが知覚するもの。それが人類の常識である。
そんな思いを大切にし、この世界と関わっていく態度を持っていたいものです。

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