自分勝手に見た世界

生き物の世界というのは非常に複雑であり、考えれば考えるほど意味がわからなくなってくる。

例えば「ホタテは目が80個」という話を聞いたことがあるだろうか?

そもそもホタテの目ってどこ?

どこまでが“身”でどこからが“殻”なの?

殻は身体なの?

痛いの?身は痛いの?

どうやって繁殖するの?

謎が謎を呼ぶなかなか奥深い生き物である。

しかしそんな「妖怪80目」こと、みんな大好きホタテ貝であるが、その目で認識できる能力はなんと“物体が動いているか止まっているか程度”であるらしい!!まさに節穴の目!なんのための80個!!節穴が80個あっても節穴であることには変わりない!

見えないものは存在する

「オーラが見える」

「右肩に霊がついてる」

「私には見えるんです!」

そんな会話をすれば、決まってどこか嘲笑するように「ヘェ〜すごいね!」と言う人もいるが、ホタテの見え方と人間の見え方が違うように、人それぞれ見え方というのは違うはずである。自分と同じように他人にも見えているはずだという思い込み自体が傲慢な考え方なのである。が、そういった悪徳商法が存在するからこそ変なイメージも持たれやすいのだろう。

ヒトは基本的に傲慢で自己中心的な生き物である。「目に見えるもの」を対象として世界を認識しているし、見えないものはスルー。

情報源の約90%は視覚情報であり、目で見えるものは他者と共有できるが、見えないものは共有しにくい。そしていつの間にか見えないものは扱われなくなり、この情報社会において言語化できないものは淘汰されていく運命にある。

しかし当たり前だが、見えない物だって存在している。

恋人にフラれれば「負のオーラ」がどんよりと彼らを包み込むし、うかれている人間は一目瞭然「浮いている」のだ。これらは目に見えないが、見えるのである。「具体的にどこがそう見えるのか?」と問われれば答えることに苦しむが、誰が見てそう感じられるものである。

非常に曖昧で、だけど確実にそういった「何か」は存在する。それをある人は「オーラ」と呼ぶかもしれない。ある人は「気」と言うかもしれない。共通言語などあってないようなものであるが、そこには「感じることのできる何か」があるのである。

認識の構造

ホタテにとって見えない世界を私たち人間は認識できるように、私の認識が及ばないものをあの人は認識しているのかもしれない。そこを受け入れなければ、自己中心的な視点は変わらないし、自分の認識能力は広がりを見せない。

人は無意識的に色々なものを感じている。感じているのだけど、それが言語化できないというだけで認識にのぼらずに盲点となってしまう。

認識の構造を考えれば、人は「自分」というフィルターを介して世界を認識しているわけである。だとすれば認識能力を高めるためには「自分自身」に焦点を合わせるしかないだろう。

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