木に学べ。

先日の台風15号はおそらく僕が生まれてから僕の周りで一番被害が出た台風であったと思う。被災された皆様の1日も早い安心できる生活の復帰をお祈りしています。

 

僕の家の近所の公園も、ものすごく太い幹の大木がなぎ倒されていた。凄まじい光景だ。

なぎ倒された東綾瀬公園の大木

しかし非常に違和感を感じる部分もある。

なぜこんなにも大きな木が簡単に倒れてしまうものかと・・

 

根っこを見れば一目瞭然。根が浅い。

この大木は公園を作るために何処からか持ってきて植え付けられた木なのであろう。

いくら幹がまっすぐであっても、人の手によって植えつけられた木は弱い。

いくらイビツな形をしていても、自然の中に自ら根付いた木は強い。

木の形は千差万別。曲がりくねった木は、それはそれの美しさがある。しかし人間はどうであろうか?「正常」を規定し、そこから外れたものは「異常」とする。

本来的には自然界には正常も異常もないはずである。あるのは生き残る強さであり、環境への適応であり、自然界の中で循環の歯車になること。

この倒れた大木を見て、ふとそんなことを考えた。

まっすぐ大きな幹を持っていても、根が浅ければ弱いものだ。

どんなに曲がりくねっていても、根が深ければ強いのだ。

そしてまっすぐが美しいか?曲がりくねった方が美しいか?は見る人が感じるものであり、関係性の産物である。

人間の社会を改めて見つめ直し、どうしたものかと感じた次第である。

 

 

というわけで、タイトルにもある「木に学べ」は、法隆寺再建の立役者である宮大工西岡常一さんの書籍。友人のおもさんからオススメされた一冊。

 

さきほど台風後の木を見てふと思ったことを綴りましたが、そんな浅はかなものではない素晴らしく深い気づきを得られる一冊がこちらの本。

西岡常一棟梁は、木のクセを見抜き、それを適材適所に使うことが棟梁の仕事であると言っている。木というのはまっすぐ伸びているように見えても、土地や風向き、日当たりなどの周りの状況に応じてクセが出てくる。そのクセを見抜いて組まなければ、何千年と続く建築は立たないのである。

昔は木のクセを見抜いて建築をした。寸法よりもクセを見抜くことが重要であり、それが塔の強さに直結すると。

だからこそ千年もつ建築がなされたのである。科学では到底追いつくことのできない昔な人の知恵である。

 

こちらの書籍の中の言葉は本当にたくさん名言があるのだけど、その中から自分が印象に残った言葉をいくつか紹介。

1300年前の飛鳥時代の大工は賢いな。大陸から木造の建築法が入ってきた。中国の山西省應県に佛宮寺という600年前の八角五重塔があるんですが、これは直径29mもあるのに軒先が2メートルほどしかない。ところが同じ八角でも夢殿は径が11メートルなのに、軒の先は3メートルも出てる。ちゅうことはや、大陸は雨が少ないのやと思いますよ。ところが大陸の雨の少ない建築を学んだけれど、飛鳥の工人は日本の風土いうものを本当に理解して新しい工法に変えたちゅうことです。基壇も高くなってます。こういうのを賢いゆうんですわ。今みたいに、なんでもそのままひしたりせんのや。軒が浅くてはあかんぞと考えたんですな。徐々にやったんやなくて、そのとき一遍で直してるんです。こういうのを文化というのとちゃいますか。

 

情報社会になり、多くの情報が飛び交う世の中。

ネットの世界には真の実力とは関係のない、仮面や鎧で覆われた謎のキャラクター設定でブランディング。実態の伴わない情報があちこち拡散されている。

知識に価値はない。大切なのはその知識を自分ごととして実証していく中で、工夫する知恵である。

 

電気の道具は消耗品やが、わたしらの道具は肉体の一部ですわ。道具をものとしては扱いませんわ。それと道具も自分だけのものやと考えるのは間違いです。形ひとつにしても今決まったんやない。長い長い間かかって、使うにはこの形がいいと決まったんですから。

近年の電気を用いた道具は非常に便利である。例えば家庭用品でいえば、掃除機も洗濯機もフードプロセッサーも食洗機も・・昔は全て手作業で道具を使って行っていたものである。それが電気に代用された。

便利になったことで得られたものは大きいが、同時に失われたものも大きいと感じる。西岡棟梁も話すように、本来道具というのは肉体の一部であり、素人では扱いが難しいものでもある。形をその形通りに使えるということは簡単なことではない。むろんそれは自身の肉体においてもいえることである。

道具の手入れをひとつとっても、電化製品には専門家が必要であり、私たちは日頃から電化製品の手入れをすることはない。そういった「道具」を自分の肉体として扱うための心構えすらも、近代では失われてしまう世の中なのである。

 

(法隆寺 五重塔を案内しながら)塔の各階の四つの角の部分を隅木と言うんですが、それが、最上階までずーっと一直線に並んでいますでしょ。時代が新しくなって作られた塔はこうはいきませんで。それは木のクセを見そこのうているから、こうはいかんのです。作って千三百年でっせ。今でも、きちんと一直線や。木にはクセがありますのや。こんな柱でも、みなクセがあります。この木は右による、これは左によるというふうに。その木のクセを見抜いて、右に寄るというのは寄らせないように、左に曲がるというのはそうならないように、うまく抱き合わせて組み上げていかなあきませんのや。そういうことをちゃんと加減しているんですわ。そういうのは、解体してみて、ほんとに感心させられましたわ。

科学に重きがおかれすぎ、数値化できるものを正しいとし、目に見えない木のクセというものは蔑ろにされる。それはお寺の建築だけの話ではないと感じる。自然界は常にバランスを取っている。冒頭で書いたような話でもあるけれど、人間が科学という枠で捉えることで、バランスが崩れている。古き良きものは姿を消しはじめ、日本の文化は失われてきている現状がここにあるのだと感じさせられる。

 

わたしが農学校に入れられて、そこを卒業し、1年間農業させられて、そして収穫が農民のおじさんより少ないということで、これはどういうことやとおもう、とおじいさんに言われたんです。それで、わたしはわかりません。学校で習ったとおりに、チッ素、リン酸、カリの肥料配合をうまいことしてやったんや。ところが結果はこういうことやから、わかりませんと言ったんです。そうすると、おじいさんが「おまえはな、稲を作りながら、稲とではなく本と話し合いしてたんや。農民のおっさんは本当は一切話しはしてないけれど、稲と話し合いしてたんや。農民でも大工でも同じことで、大工は木と話し合いができねば、大工ではない。農民のおっさんは、作っている作物と話し合いできねば農民ではない。よーく心得て、しっかり大工をやれよ」と言ったんです。木も建物も同じですわ。作りながら話し合って、初めてわかるかというのがあるんです。

 

現代社会の大きな落とし穴を教えてくれるような本質的な言葉。人はいくらでも嘘をつくけど、木は嘘をつかない。職人として木と向き合い続けて得た気づきなのではないかと思いますが、そんなことを僕が言うのもおこがましくてゲロっちゃいそう。

 

また今後も追加します。

 

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