型にはまることで世界の広さを知ることができる

「視野を広げなさい」

この「視野を広げなさい」という言葉

これは小学生の時から始めたバスケットボールで、当時のコーチに言われ続けたことであり僕の中ではその後もしばらく座右の銘としていた、大切な言葉である。

コーチの言葉の真意分からないけれど、おそらく「プレー中の視野」という意味のみならず「いつでも周りを気にかけなさい」という意味が含まれていたように思う。例えば「体育館に保護者の方が入ってきたらそれにいち早く気づきが、すぐに挨拶をして椅子を準備しなさい」というようなことも教わっていたから。

こう言った気遣いが出来るようになれという意味も「視野を広げなさい」の言葉に含まれていたのだろう。少なくとも僕はそう解釈していた。

そのおかげで僕は小学生ながら割と周囲に気がむくようになったように思う。「気が利くね」と言われる場面も少なくなかった。誰かが困っていた時、頼まれる前に察して声かけをできるようにもなっていた。「視野を広げる」はバスケに限らず、日常生活においてもとても大切な教えであった。

理学療法士になっても、この教えを大切にしていた。

「局所か全体か」みたいな議論が出ることの多い業界であるけれど、僕はどう考えても「全体」が大切だろうとしか考えていなかった。僕らが相手にするのは「ヒト」である。たとえ「膝」が痛い患者さんであっても、膝に影響を及ぼしているのは「全体」であり、その「全体」を掴むことさえできれば「膝」の痛みは解決する。そんなふうに新人の頃は考えていた。
「膝ばかり診ているのは視野が狭い」そしてそれではいけないと自分に言い聞かせていたのである。

しかし、この考え方は徐々に変わっていくこととなる。いや、変わるというか気付いたのだ。「局所か全体か」ではなく、結局どの抽象度で物事を捉えているか?の違いであり、皆それぞれの抽象度で視野は狭いのであるということを

井の中の蛙、大海を知る前に・・・

僕は「視野を広く」ということを大切に臨床をしていた。細かい関節の勉強などもしていたけれど、全身の繋がりを考えながら身体を診ていた。しかしそんな中、どう考えても全身の関節の繋がりでは捉えきれないような患者さんに出会った。視野を広く診ているつもりであったけど、それでは対応できず「もっと視野を広げなければ対応できないな」と感じたのだ。
僕は理学療法の範疇以外のことも勉強しはじめた。専門外のことにまで視野を広げなければと感じたのだ。

そこで代替医療などを学びながら「自律神経」や「内臓」など、普通の理学療法ではあまり対象とならないような部分の勉強も始めた。すると対応できる患者さんも増えてきたように感じていた。

しかし、新たなものを学ぶと人は「それっぽく認識する」という仕組みがある。例えば自律神経の勉強をすると、患者さんの自律神経の問題にばかり意識が向くということだ。人の認識のフィルターは重要度に左右される。

「視野を広げる」ということを大切にしてきたつもりだけれど、結果的に「自律神経」に囚われて視野が狭くなっている自分がいた。「俺って自律神経のことまで考慮していて、視野が広い」だなんて思ったことはないけれど、今思えばそんな風にも見なくない。それほど、当時は何かと「自律神経」と思い込んでいた。

なぜそれが「思い込み」だと気づいたのか?

それがここで1番重要な話である。

「自律神経に囚われすぎて、視野が狭くなっていた」ということになぜ気づいたのか?

それは視野を狭く自律神経のことばかり気にしていたおかげです。そのおかげで

・どんなタイプの人は自律神経の影響が大きいのか?

・どんなタイプの人は自律神経の影響が少ないのか?

そんなことが段々と分かるようになってきたからである。分かるようになってきたというのは、鑑別ができるようになってきたということ。つまり自律神経に対する治療が「適応」なのか?「適応でない」のか?が分かるようになったということ。

そこで「適応でない場合」にどうアプローチをするのか?と向き合う必要があって、初めて「視野を広げる必然性」に駆られたわけです。「あっ、こういうパターンの人は自律神経ではなく、動き方の問題だろう」と。

思えば最初に自律神経の勉強をし始めた時も、「筋肉や関節ばかり診ていても手に負えない」という、視野を広げる必然性に駆られたから勉強を始めたわけであり、大切なのは「必然性に駆られる」「必然的に視野を広げる」ということなんですよね。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。

井の中の蛙は、外に広い大海原があることも知らない世間知らずである。といった、狭い見識に囚われお山の大将になっている人に向けて皮肉の意味で使われることの多い言葉ではないでしょうか?

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しかし、井の中ですら泳げない蛙に「外には大海原が広がっているよ」といったところで、海を自由に動くことさえできません。そもそも泳ごうともしないでしょう。

つまり「視野を広げようね」などと言ったところで仕方ないのです。視野は広げるものではなく、必然的に広がっていくものなのです。

大切なのは、まず井の中を自由自在に泳げるようになること。狭い世界であっても、その中でその世界を知り、外の世界を知りたいという欲求に駆られることではないだろうか。

必然性の連続

結局は視野を広げたつもりでも、その先に見える世界も「とある規定」の中で囲われた世界です。言葉遊びのようですが、視野を広げても結局はフレームの中で認識するしかないということです。

しかしそれで良いのです。「必然性」を感じた上での認識のフレームの変化ならば、そのフレームでまた視野を狭くして認識していけば良いのです。

大切なのは「素直に受け入れること」であり、分からないものは分からないとした上で、向き合う姿勢です。

例えば「筋肉や関節の治療が大切」というフレームでの認識パターンのセラピストであった時に、どう考えても筋肉や関節の問題ではなく心理的な問題や自律神経の問題が大きい患者さんを担当したとします。

そういった時に「筋肉を鍛えて関節を安定させれば必ず良くなる」と考えるか、「他の可能性も考える必要性がありそうだな。なんとなく心理的な問題のような気もするし」と考えるか?その差が大きいのではないでしょうか?

ヒトの認識を変えるには気づきが重要であり、その気づきを促すのは自身の「感覚」と「意識の在り方」です。
この「意識の在り方」とは知識や経験のみならず、素直さとか性格とか基底的なものも含まれます。

つまり日々の自分の行い一つ一つが自分の在り方を作り、その在り方自体がまた自分を変えるきっかけに大きく影響するということですね。

型にはまることから始める

空手には「型」があります。

型があるからこそ、型から外れた動きが分かるようになる。

型があるからこそ、自分の動きの癖が見えてくる。

「型にハマる」というのは、あまり良い言葉で使われないことが多いような印象もありますが、型とは判断基準です。
なので型にハマらなければ判断基準が持てないのです。何かを判断するときは、一度「型にハマらなければならない」のですね。

これはつまり、「視野を狭く」というのとほぼ同義です。
視野を狭くするから、そのことがしっかり分かるようになってくる。そのことが分かるようになるから、それ以外のことが見えてくるようになるということです。

狭い見識の中で十分に物事を診れるようにならなければ(井の中を自由に泳げるようにならなければ)、物事の判断も中途半端なものとなる可能性があるわけです。医療の世界ならば、治療方法の選択が間違える可能性があるということ。

まずは井の中を自由に泳ぎまわれるよう、「井」という型にどっぷりハマること。そして「井」という判断基準を持ち合わせるから「大海」という認識が持てるようになるわけです。「井」を認識もせずに「大海」を認識したところで、大海の価値などわからないわけですね。

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