実感の持てない理念を先行させてはいけないのか

こんにちは。ささやんです。

今日は法人経営に関するモヤモヤと悩んでいることについて殴り書きをしていきます。なので何も有益でないかもしれないので、僕に興味のある方だけ読んでいただければと思います(そんな人いないかっ!)

 

僕自身はNPO法人presentsという法人を2017年6月に設立して、そこから経営の素人なりにゆるっと副業的に活動を続けて、もう4期目に入りました。正直かなりゆっくり、ゆったりと活動しているので、本当に何も実績を残せていません。

個人的にはスピード感を出しながらあれこれやっていきたいのですが、どうもチームにはミッションとかビジョンとかいう理念が必要らしく、その理念自体にビシッとした統率力がないとチームをまとめることは難しいようです。

個人的にここに違和感を感じていた部分があり、僕は理念というものをあまり重視していなかった。そのため仲間もどうアクセルを踏んでいいのかを分からずにいたのだろう。ここで足踏みをしていたことに最近気づきました。

そこでミーティングの頻度を増やして現在は理念などを改めて皆で決めて舵をとり直したという感じです。

理念が決まると、ビシッと新たにそのミッションに向けて行動する士気は高まる気もする。
しかし逆に、僕のもっていた違和感は何なのか?それを言語化して整理する必要性を感じたので、本日はこの記事を書いている次第です。

 

違和感の正体

経営の話になると、必ず理念の重要性というのが出てくる。
僕自身もそういう類の本はいくつか読んだし、言いたいことはとても分かるし、それを読んでミッションみたいなものを考えたりすると、モチベーションが高まる側面もある。

しかしモチベーションというものはポジティブに捉えられることが多いけれど、非常に厄介なものでもある。なぜなら、モチベーションというものに行動が支配されてしまえば、それは非常に不安定な状態とも考えられるからだ。

モチベーションに左右されず、淡々と物事に取り組み続ける。そんな地味で安定した状態でいつづけることが、個人や組織の成長には欠かせないことなのではないだろうか。
であるならば、理念によってモチベーションが影響されないくらいの状況にならなければならない。それはつまり、必然性をもって何かに取り組んでいる自分(組織)という状態になっていなければ、理念を抱えるのは無意味なのではないかと思うわけです。つまり理念先行ではなく、あくまでも結果的に理念のようなものが内省した時に見つかるような状態が必要なのではないかと。

理念というのはあくまでも概念であり言葉。つまり極めて抽象的なものである。
その抽象的なものが先行してしまえば、実感を持ちにくい行動に支配されてしまう側面もあるのではないだろうか。

そうではなく、やはり行動し続けた結果実感の持てる言葉で理念を作っていく必要があるのではないか。それが僕の違和感の正体であったのだろう。

 

行動・成長・視座の高まり

これまで自分自身を振り返ると、成長(変化)には偶発的な出来事が重要であったと感じている。計画通りに物事が進んだこともあるけれど、予想外のトラブルに見舞われた経験から学んだことも多い。

予想外のトラブルというのは、人間の成長に欠かせないものである。それは視点がガラッと変わるようなインパクトがあるからだ。「計画通り」の積み重ねには、過去の自分の予想の範疇の成長しか起こらない。しかし予想外のトラブルというのは、突然のプレゼントのように自分の視点を変えてくれるものだ。それは良くも悪くも・・・

そんなトラブルと出くわすには具体的な行動をし続けることだ。そこに理念が必要かと問われれば「どちらでもいい」のである。理念は一旦置いておいて、具体的指針を掲げながら淡々と行動し、目の前のことに真摯に取り組み続けることでしか成長は起こらないと想うのである。もちろん何も考えずに行動すれば良いのではなく、掲げた具体的指針に対して考えながら行動することが前提である。

自分が成長してしまえば視座が変わるため、大切にしたい理念というのも変わってしまうだろう。であるならば、視座の低い自分が立てた理念などくだらないものであり、理念がコロコロと変わるなんていうことだって起こり得るだろう(勿論それはそれで良しとされているが)

「理念=具体的指針」というわけでもないのだから、まずは成長し続けることを第一に小さな具体的指針を持って考えながら行動し続けるのが大切なんじゃないかと思うわけです。抽象的な理念ではなく。

 

言葉を良くも悪くも作用しやすい

そんなひねくれた思考を持っていた僕ですが、知人の理学療法士経営者の方の動画を見た時に、まぁ確かに理念みたいなのは大事なのかもしれない!と思うことがありました。

この動画では、チームビルディングをしていくには共通言語が必要であるという話を、高校野球の部活にたとえて話されています。

「甲子園に行く」という共通言語があるからこそ、チームはひとつの目標に向かって歯を食いしばって頑張れることもあるし、今何をすべきなのかを一人ひとりが考えて行動することができる。

この動画を見たときに「確かに共通言語(理念)って大切だな」とも感じることができた。

それと同時に主体的な「個」が集まらなければ、チームとしての共通言語も機能しない。それを育てるのには理念はあまり関係ないのではないか。とも思った。

つまり「甲子園に行く!」という共通言語を作ったところで、その言葉に向かって努力するのはあくまでも個であり、その個というのは共通言語では育たないということ。「甲子園に行く」という言葉に対して、どれだけ自分ごととして実感を持てるか?というのは個人差が大きいということである。

先ほども言ったように、必然性をもって何かに取り組んでいる自分になっていなければ、理念はただの飾りのようなものになる。個々が「絶対に甲子園に行くんだ」という想いから主体的に練習に取り組んでいるような状態になること。一人ひとりが内省した時に「県ベスト4じゃない。俺は甲子園に絶対に行くんだ!」という状態になっていなければならない。

では理念先行では良いことはないのだろうか?

そんなことはない。何事も白黒はっきり良し悪しをつける考え方が僕は嫌いだ。
理念先行には今言ってきたように、実感の持てない言葉に左右され迷子になりやすいというようなデメリットもある一方で、その言葉自体がその個人に影響を少なからず与えてくれるメリットもある。

つまり扱い方次第である。
言葉は良くも悪くも作用しやすい。「馬鹿野郎!」という言葉は、状況と関係性によって全く異なる意味合いとなる。「甲子園に行く」という言葉は、本当にただの飾りになることもあれば、日々その言葉を聞くことで甲子園というものへの意識付けが高まり、実感を持つために作用してくれることもあるだろう。

 

組織の理念を抱えた時、その理念の決定権が強いのは代表者であろう。NPO法人presentsの場合で言えば、僕である。

現に皆で決めた法人理念であるが、僕の意見が強く反映されている感じがある。僕としてはこれまでの行動から感じていた問題意識とか大切にしている想いを反映させた理念であるから、実感を持てている。

しかし若いスタッフにとっては意味がわからないこともあるだろう。ミーティングをした時も話についてこれていない感じもあったように思う。

組織として、そして後輩の育成として、理念を決定したまま放置していては悪く作用させてしまうことだろうと思う。僕の想いを日々伝えながら、後輩たちの想いを聞きながら、実感の持てる言葉を抽出していくことは、今後もずっと大切になる。

 

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