感情と理性を分けて考える〜幼児教育で大切にしたい習慣〜

こんにちは。ささやんです。

先日こんな記事を読みました。
中2で起業、高1で母校買収した生徒の正体|東洋経済education×ICT

株式会社TimeLaepの代表を務める仁禮彩香さんという方の記事。
子どもの教育に関係する記事でとても考えさせられる内容で大変興味深かったので、忘備録として雑感を綴りたい。

日本の教育の問題点

仁禮さんが代表を務める「TimeLeap」では、小・中・高校生に向けて「自らの人生を切り拓く力」を育むための教育プログラムを提供しているとのこと。

原体験として、仁禮さん自身が幼稚園から小学校に進学した際に感じた違和感にあるという。

記事から抜粋すると

「私が通っていた、湘南インターナショナルスクールの幼稚園では、何か問題が起こったときや、何かを決定するとき、先生がすぐに介入するのではなく “なぜそう思ったのか” “なぜそのようにしたいのか”、一人ひとりの考え方を聞き、みんなが納得できるプロセスで、子どもたち同士が話し合い解決をしていく。そんな教育を受けてきました。

 

また、“感情”と“理性”を分けて考えるということも、徹底的に教えられ、その中で『自分はどうしたいのか』という思考を深く身に付けることができたのです。しかし、入学した公立の小学校では何事も先生が決めて、1つの答えだけを求めていくという教育が展開されており、例えば、道徳の授業でも教科書に載った1つの答えが正解で、自分の頭でしっかり考えることができない。それは驚きでしたし、正直違和感が募りました」

確かに仁禮さんがおっしゃる通り、日本の学校教育は「たった一つの正解」だけを求められるような暗記型の教育です。

これは歴史を振り返ると、戦時中や戦後の軍隊教育の名残が続いていると考えられます。
戦争中に求められるのは規律性。皆で足並み揃えて一つになる。そこに個性は必要なく、大切にされるのは「いかに指示通りに正しく動けるか」という、たった一つの正解とされるものに対して忠実に取り組める勤勉さだったのです。

また戦後の日本再生期。焼け野原となった日本が高度経済成長期を経て先進国になるまでの間は、やはり「ものづくり」の担い手として、正確に工程通りに商品を生産できるシステマティックに動ける人間が大量に必要とされました。ひたすら同じ工程をミスすることなく黙々とこなせるだけの勤勉さは、戦時中に求められた人物像と同じような特徴があります。

こういった社会背景もあり、日本の教育は「足並み揃える規律性」「正解は一つ」「暗記型」などの軍隊教育が続いていたのです。(個人的意見ですが、コロナ禍において日本人の同調圧力が強いのは軍隊教育の弊害のように感じています)

しかし時代は令和。空白の平成時代に科学技術は飛躍的に進化しましたが学校教育はほとんど何も変わりませんでした。そうこうしているうちに、昭和時代に求められていたような人物像の人たちは、今ではAIにとって変わられる職業などと言われてしまっています。

時代が変わっているのに変わらない教育。そこに対する問題意識を持つ人も少なくありませんが、教育問題となると公的なものであり多くの人は無力感を感じてしまうもの。それを仁禮さんは民間の立場からできることを取り組み始めていて本当に凄まじい方だなと考えさせられました。

 

感情と理性を分けて考える

仁禮さんの幼少期は“感情”と“理性”を分けて考えるということを徹底的に鍛えられたとのこと。そこでそれについて僕なりに少し考察していきたいと思う。

感情と理性を分けて考えるというのはどういったことなのか?
それがなぜ大切なのか?日頃からどういった関わりでそれらを分ければ良いのか?

まず感情と理性とは何かということを一言で簡単に定義してみる。感情とはご存知の通り喜怒哀楽など気持ちのことである。それに対して理性というのは、論理的思考能力など知的に物事を考えられる知性のことである。

脳科学的には感情は大脳辺縁系という動物にも存在する古くからある脳、理性は大脳新皮質という人間が発達している比較的新しい脳とされる部分が深く関係すると言われる。そのため理性こそが人間を人間たらしめるものであると言われたりもするけど、脳科学的には相互に影響し合っているため厳密に分けることはできない。

しかし、そうは言っても感情と理性はそれぞれが影響し合うという意味では分けれるものではないけれど、それらを分けて整理することで見えてくることも沢山あるはずだ。

「花は美しい」はあるけれど、「美しい花」はない。

これは僕の友人のおもさんから聞いた言葉である。
この言葉を直感的に納得できること。それが感情と理性とを分けて考えられているか?の一つの指標となる質問なのではないかと感じた。

「花は美しい」は感情的・情緒的な言葉である。
しかし論理的に考えれば、「美しい」と感じるかどうかは人それぞれであるため「美しい花」というものは存在しないのである。存在するのは「美しいと感じる心」であり、その心こそが美しさを持っているのではないかと感じるのです。

「花は美しい」はあるけれど、「美しい花」はない。この言葉に皆さんはすっと納得できましたか?

しかし論理的思考というのは非常にわかりやすいものである反面、感情や気持ちというのは奥深く味わいのあるものである。

「美しい花はない」を論理的に説明することはできるが、「美しいと思う心」は論理的には説明できない。しかし私たち一人一人の人生に常に触れているものは五感であり、感情・情動である。

論理的思考というものが重要だと言われる昨今において、そこに傾倒することの危機感を僕は感じざるを得ない。

数学者の岡潔はこんな言葉を残している。

「知にも理にも情を説得する力はない」

情を深く突っ込んで考えていきたいものです。

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